sappalenia’s blog

無責任な戯言です

心象1

 ブリッグズとマイヤーズの理論、その受け売りみたいなもんです。最近身を預けすぎてドツボにハマったので、自分の言葉で精算しておく。

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 この世を見る時、視点には2つがある。短期と長期の、2つの視点だ。そして記憶の仕方にもまた、短期記憶と長期記憶という2つの仕方がある。

 短期と長期、言い換えるならそれは現在と未来とも形容できるだろう。長期記憶については、それは過去の記録なのであるが、未来に繋がるのは短期記憶ではなく長期記憶の方だというのは面白いところであると思う。もちろん、短期記憶の結集が長期記憶の基となり、そちらもまた未来へと間接に繋がるのであるが。

 唐突だが、現実に向ける視線と未来へ向ける視線の双方は共存しなくてはならない。どちらも現在において、欠けてはならない物事の見方だろう。なぜなら、未来は現在の堆積であって現実を疎かにすれば未来は自ずと疎かになる。反対に、未来を疎かにすれば、即ち未来への見通しが無いのであれば、積み重ねる現在の堆積は野放図なもので、何の目的も指向性も無い。それはつまり乱雑な未来の到来だ。目的を以って仕事をしなければ、望んだ未来には立ち会えない。以上より、これら2つは同時に不可欠で、どちらか一方の極に偏ってよいものではない。

 しかし、人間の性質として、考え方は極へ偏りがちだ。おそらくそれは、そちらの方が理解に易いからだろう。極に走れば、自身の立場が明確になる、つまり自分というものの正体が分かった気分になる。私はこちら側だという自身の所属する陣営を得る。これはマズローで言うところの所属の欲求なのであろうか? 他の動物と人間の差異には、善悪という価値基準がある。そして人間の行動基準は、この価値基準か即物的な損得勘定で決定されるのだと、それが私の胸中である。願わくは、この価値基準に定常的に準拠したいところであるが、現実は損得勘定の断続的な落雷にこの体は痺れ、苦労して醸成される価値基準は揮発するところであろう。

 そして同時に、善悪の価値観は中立というものが無い。この世のあらゆる事象は善悪のフィルターを通し、二者を選ぶか、あるいは悲しいことにそもそもの善悪の価値観を捨てた自我消失の事実に対する野晒しかもしれない。フィルターは捨ててはならない。

 善悪のフィルターを2つの視点に適用した時、双方について長短が見つかることであろう。そして、それらの短所は各々が致命的なのだ。ならば、善悪の是非のようにどちらか一方に偏執してはいけない。そうではなく、長短の視点の2つの善を認め、これらには相補的に懇ろにしなければならない。これらは掛け算のようなもので、どちらかが0になれば最終的には0になるような、そんな様相をもつ。

 善悪は理解し易い。なぜならそれは、自身の立場がはっきりするからだ。(アイデンティティの確立に寄与する。)だが、2つの善悪が互いに影響し合う時、私は明確な善の立場を捨て、互いの善の目指す先へと折衝を図らなくてはならない。

 そしてそれは、人間にはジレンマなのではないだろうか。(もちろん、他方に善の重みを感じないのであれば、この板挟みはそもそも成り立たないのであるが。)