sappalenia’s blog

無責任な戯言です

他人とのかかわりについて

思考の明文化と整理、心の声が聞こえない日々が長いので。

 

以前の私は、常時他人と比較したり、あの人ならばこんな時どう対処し行動するだろうかだとか、私は何を喋ったらよいだろうかなどと、常に迷いや自身への疑いを抱えて、社会や人と関わっていた。

 

一つこれといった筋も無く、不安な気持ちで生きていたと言える。それは自分が無いという事だったのか?

 

この問いについては懐疑的だ。現在の私は、以前よりかは迷いや不安が消え去り、自信というものが芽生えてきたような気もするが、しかしこの自信に対し、私は全幅の信頼を置いてよいものか。思考停止によっても不安は消え去る、自分が揺らぐことは無くなる。果たして現在の私は、考えることをやめただけなのではないか。世の中に正解は無いという言葉を聞いたが、かと言って正解を全く以って探そうとしないのも何か感覚的ではあるが蛮勇である気がする。暇が無くなって来て、それだけ考えることに時間を割けなくなったとすれば、それは現実に適応しているということなのであろうが、何とも悲しい気分がする。なるべくよく生きたいと思って、自分の思考を疑いすぎるあまり自信を失くし、他人へと不遜な態度をとることは避けたい。しかし一方で、全く自身の思考を疑う事を止めて、知らぬ内に他人へ大きな迷惑をかけていることも好まない。

 

物事は度々、二律背反の様相を呈すような気がする。あっちへ、こっちへ、どちらにも行き過ぎては行けない。極の方が理解はし易いのだが、現実に即してなるべくよりよく生きたいと願うのならば、真ん中の折衷案を取ることが求められることはままあるような気がしている。

 

本意としては、多角的に物事を捉え、誤謬を減らして行きたいものだが、物事は考えることを待ってくれない場合がある。だからこそ、瞬発で最大効力の思考に達せられるような状況を作り出せることが最良なのだろう。なんだそれは。

 

現在の私は、思考を出来る状況であるのに止めてしまっているのが良くない。理由としては、心が楽だからだろう。だが、楽な反面、学びも無いし、起伏もないし、記憶に残らない。この状況は良いとは思えない。以前は、何の為に生きているのか酷く悩んでいた。それは換言すれば、目的意識を希求することの現れだったとも思うのだが、現在それが無いのは人生に目的や理想、二次的な価値を見出す事を止めたからなのではないだろうか。理想を全く辞めてしまうよりも理想を求めて悩んでいる方が私にとって良い未来へと繋がるのではないか。ストレスにも色々あると思うが、自分への不能感に苛まれていた頃の方が私はよく思考をしていたし、心に余裕は無かったものの、学びはあったように思う。当然、この状態が続けば実務や他人への配慮に差し障りが出て来るから、見切りは何処かで付けねばならないとは思うが。

 

今の私は何なのだろうか。一つ改善すべき所は、以前のようにもっと自分はこれでいいのか考えて他人と関わる事だろう。自分が正しいと思った途端、成長は止まる。慢心につながる。心に余裕を持たせつつ、自分が正しいとも考えない。そんな微妙な線上に立つことを、現在の私は望むべきなのだろう。

 

正しいと思えないのに、心には余裕があるという状態を保つにはどうしたらよいか。それはおそらく、自分がその程度の人間であると肯定的に卑下出来るようになる事なのではないだろうかと考える。なぜなら、自身の限界を知って、もうそれ以上はどうしようもならないという時、もはやそれは受容する他無いと断ぜ得る筈だからである。この受容することの有無が心の安定や自信に繋がると考えられる。

 

まとめるならば、まず自身の能力の限界を素直に受け止めてしまうこと。そして次に、素直に受け止められる範囲で自身の能力を更に疑って行くこと。これらが生きる上で、重要になるのではないかと考えた。

 

更に重要なことは、所詮私程度が考えたことであるから正しい訳がないということであろう。考えは行動の指針にはなるとしてもそれ自身が何ら正しい保証は無い。だから畢竟するところ、そのようなある種の達観は必要だろう。考えはするが、所詮私はその程度の私だということを忘れずにいたい。

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最近は言葉が浮かぶことは滅多に無くなった。それは恐らく物事に動じにくくなったとして良い事とは捉えているが、物寂しくもあった。環境が変わり、ストレスを受けにくくなったこともあるだろう。今後は自身の欲求に任せた自発的な経験も増やして行くべきだろう。未だに自分からやりたい事があまり無いのがネックだ。やらなくてもいいかとなるのが損してる部分だろう。