sappalenia’s blog

無責任な戯言です

最近感じている事

いざ書こうとならないと、自分でもどんな考え方をするのかが分からない・・・汗

<自己満足と他者との意思疎通との兼ね合い>

 

 ある自身の興味をどこまで掘り下げるか、そしてそれが他者とのコミュニケーションにどう影響するか。これを探るにあたってまずそこに影響を与えるだろう因子を考えてみる。

・何を興味とするか(興味を抱く関心そのもの)   ・・・①

・興味対象への関わり方(興奮、分析、観察、イメージ) ・・・②

上記のものは少なからずあるだろう。

 これを前提とした場合、他者と全くもって興味関心の内情が合一になることは極めて稀となるのだろう。自他でこの4要素がうまく合致せねばならないことと、興味対象への関わり方に関しては、その深度やそれまでの前提が絡んでくる筈。

 ①に関しては、現代のコンテンツの多様化あるいはネットによる多種多様な情報へのアクセシビリティの易化が統一性を弱め、分化を促進したのではないかと思い、興味関心の共有度合いを弱めたのではないかと考えている。

 しかし、①の要素はしばしば意思によって合一を図られている状況があると思う。これは意図的な選好でも達成しうる要素だと思うので(余程のこだわりがなければ)、この因子でもってひとまずの興味関心の足掛かりを掴むことは叶う。

 ②に関しては、ユングの心理機能類型をもとに考えてみたが、この前提ではそもそもここに偏りの少ない4因子が立ち現れている時点で、摩擦の控え目な興味関心の共有は難しそうだ。

 こちらは①と異なり、生来の気質に関わる要素の為、前項と比較して矯正はしがたいのではないだろうか。

 

 そのため、興味関心の共有は①の両者間での並立が確認されたことをもって成立とし、その裏側で行われただろう矯正を根拠とし、社会性の提示とするのだろう。多少の、興味関心への接し方の相違は問題とはならず、むしろ前者が取っ掛かりとなる。

 この論からいくと、心理機能の似通ったものよりも同じ興味関心を抱く者の方が他者としては接しやすいのだろうなあ。また、興味関心の対象に関する接した事実としての固有名詞や関係性の分析ができると、相手からして分かりやすいだろう。感情・イメージは相手も同一のものを見なかった場合は、言っても詮無いこととなりがちだ。