sappalenia’s blog

無責任な戯言です

精神の自由と創作による生活基盤の確立について

 精神の飛躍をさせたいとずっと思って生きてる。その為には論理と感情の両面を観察して発揮せねばならず、うまく現状の功利に合わせてやらなくてはならない。この精神の飛躍とは結局現状対処であるというところに虚無主義への隘路であったり、疑いによる前進の停止へ誘われたりと、妨げがあるように感じる。精神の飛躍が現状対処であるならば、精神の飛躍とは効率ではないかと思われる。しかし、この点から効率のみを求め出すようになると次は心が不調をきたすし、結局対外関係に不調をきたす。

 だから最終的には、効率を求めた先の盤石な地盤に足を踏みしめて、現状対処が間に合っている段階になって初めて自由な思考の旅を始めるのが筋になるかと思う。だとしたら、それは結局ギリシア時代の、奴隷の労働に担保された暇を持つ自然哲学者達の思索と同じなのではないか?

 そう思うとやはり、自由な精神への必要条件は暇ということになるし、いかに忙殺されないかを戦略立てていかなくてはならない。そしてこの戦略と自由な精神に近いものを融合させた生業こそが仕事として確定した創作活動なのだと思う。そういう点で、認められた創作活動、認められた創作者としてのブランドに価値を感じる。それは実利を伴った自由なる精神活動なのだから。

心の中で反芻するものや追求したくなるものを持たない時、人は寂しくなるのだと思う。例えば全ての現在が過ぎ去って過去から脈々と積み重ねてきたものが無く、その一瞬一瞬の刺激だったり享楽であったりが内面を専有していたのなら、それが無くなった途端心は拠り所を探してしまう。それは積み重ねてきたものには今後も積み重なるだろう予感があるし、瞬間瞬間の受動的な味わいは積み重ならず過ぎ去ってゆく。常に上昇と下降曲線のグラフ変動を眺めている気分なのではないだろうか。しかし、瞬間的な刺激は少ないにしても一つの事物に拘り、知識・経験を深めていくことには確固たる上昇があるし、下降がない。そしてこの態度は分業社会で要求される役割に合致する。そういう意味で、道を極める人間は安定なのだと思う。

外界の様相を見れば見る程具合が悪くなってくる。結局できることは自分の手の届く範囲だったり、自分のしたいことだったり、何を思おうが一喜一憂しようができることは殆ど無くてただ暴れないように増長しないように少しでも人に迷惑をかけず自身を満たせるように生きることだけが最後に残る。

俺の心は俺によって尽く支配されてしまっている。俺の心が俺のもので無ければ良かったのに、そう思った時、俺の心は誰のものであれば良かったのだろう。俺は俺の心を誰のものにしたいのだろう。俺は自分が居なければ居ないほどいいと思っている。