sappalenia’s blog

無責任な戯言です

2021/12/04 思考記録

 知識の転売 という言葉が浮かんだ。これを適用したい対象は私にとって明確で、それはやけに固有名詞を覚えていて取り扱い、孔雀の求愛のように仰々しくし、結論はさして面白みの無い主張へ向けられる。なぜなら、該当の主張を受けて得られる物は結局煌びやかな装飾とそれに伴う高級感であって主旨そのものではなく、まさしく求愛行動の魔の霧にかかった如く後に残るのは微睡んだ判断力と主張者の存在の肥大だけだからだ。これが問題なのは、主張の受け手の存在など度外視であり、自身の優位性を高めることのみに専心しているからだ。

 と言いつつ、受け手もその主張者と類似する場合、彼らはサロン的閉鎖空間の中でよろしくするのだが。ここはテイカー-テイカーの慰め合いという感じ。それはもちろん閉じた中での調和と双方向性の会話を生み、安心を得るので有用だが、系外では無縁の話となる。ので、理想論的にはこの系は全宇宙的に広がれば完璧となる。いわゆる宇宙船地球号を環境以外の視点から見るということで、コスモポリタニズムとも言われる。そしてこういう日常的でない用語を使えば使うほど、系は縮小していき、ダニエル•キイスが"アルジャーノンに花束を"の前書き内で触れていた、教養は他人との間に楔を打ち込む、という文言の体現ができる。

 専門性は必須だが、孤立する。ならば分業社会とは孤立社会なのだろう。孤立する人間の仕事同士で私達は確立されたジェネラルな土台の上を踏みしめている。ひどく一般的で胡散臭い話をしているが、これは前書いた親切地獄の記事にも連なる話だ。前記事になぞらえるならジェネラルな土台、それはつまり高度な技術によるシステム•モノ•サービスだろう。当たり前のことだが、私達は高度な大地に立ちながら足元の土の下に何が埋まっているかしらない。これがあやふやな孤立感の一因にもなるかと思う。

 さて、当初のテーマからは大きく外れてしまったが、知識の転売 これが定常状態として生まれるにはまずその知識へのアクセスが容易であることが必須だ。接近できないものを横に流すことはできないので。冒頭の2段落ほどを読んだところでこの文を書く奴はただ知識人が嫌いなだけだろ! と思われたかもしれないが、もう少し私が嫌いなものを明白にしておきたい。まず知識へのアクセスが容易になった社会背景はまあ検閲が薄まって様々の出版物が流通し、インターネットも現れてグローバル化も進んだ、なんかがあると思うが、これによって知識を得ることは容易になった。そこで流通業者も増えてくる。私の嫌いな彼らの業務は、知識を仕入れてそれを元に商品へ付加価値を施し、発送するのではなく、検品•ピッキング•流通加工を行わないあるいは失敗しそのまま仕入れ品を直送することだ。

 これは粗製乱造どころか出涸らしのように段階を踏むたびに純なる情報の品質が落ちて行くので、やるべきではない。はっきり言って自戒だが。ジャンクフードを喜ぶものもいれば、コース料理しか食べられないなんて者もあるだろう。なのでただ批判したい訳でも無い。個人的な感情の話で単純によい思いを持たない。あと私はジャンクフードが好きな部類なのでどの口が言っているかのレベルだ。

 ただ一つ、やはり知識の転売で自分を大きく見せるのはやりたくないなと思う。book smart なんて口語表現もあるらしいが、知識を仕入れやすくなった以上、昔よりかは転売の価値も薄れていそうな気はする。あ、だから最近は創造性とか言うようになってんのか。

 確かな情報を示す為に下調べを行うと示す情報も多くなるがそういう信頼性•説得性を悪用する場合もある。これを知識の転売の定義としておく。最後に、知識の共有と転売の線引きは何か考えてみたいと思う。