sappalenia’s blog

無責任な戯言です

親切地獄そしてアダルトチルドレン

<前提>

 以前にも、ドグラ・マグラについての記事を書いたが今回もそちらを絡めて話を進めていく。

 ドグラ・マグラでは親切地獄という言葉が出てくる。当時の作者が何を思ってこのような言葉を小説内に出したかは分からないが、少しこれについては思うところがあったので今回記事を書いている。

 さて、親切に地獄という言葉をくっつけたからには、そこには否定的な意味合いが含まれるだろう。思うに、それはよろしくない状況でそしてどうしようもない現実なのだろう。察するに、他人に対して親切にしなければならない抑圧的な状況のことをこの言葉は表しており、また受けた親切に対して親切をし返す応酬という連鎖に終わりが無いということを表しているのではないだろうか。

 夢野久作の生きた時代は明治~昭和に渡るが、当時の時代がどんなだったかを私は知らない。当時の彼には、そこで生きる人々の暮らしあるいは自身の暮らしが他人への配慮に雁字搦めにされているといった具合の認識があったのだろうか。

 現代は、合理化・効率化の時代だとか個人化の時代だとか言われている。それに対して、昔は人情の時代だったとか言われる。論拠としてはお粗末だが、現代よりも人と人のつながりが強かった時代というのはおそろく確かなのだろうと思う。では、彼はそのような人同士の関わり合いや助け合いのような文化の濃い環境を憂いていたのだろうか。利他精神に対立しやすい概念として自己責任があるが、こちらの意識が強い独立的な方だったのかもしれない。

 さて、彼が憂いていたのかもしれない親切地獄の時代も移り変わって時は現在となり、合理化・個人化と称される時代になったが、現代を鳥瞰してみて昔の親切地獄はなりを潜めているだろうか。そんなことは昔を知らないこの私からは現在との比較により答えを出すことは叶わず、となれば普段生活していて主観的に親切か親切でないかを感じた割合で判断するか、あるいは過去とは変わった社会状況を基に"親切度"とでもいうような尺度の変容を評価するほかない。

 主観を記すのも好まれないので社会状況の変容から考察してみる。本来は夢野久作前後でこれを逐一辿りたいところだが、ここは労を惜しんで自身の感知する範囲で考えてみる。

三種の神器の発明

・パーソナルコンピュータの発明

・携帯電話の普及

・インターネットの台頭

こんなところが個々人の私生活に大きな影響を与えた技術革新なのではないだろうか。これらによって生活水準は向上し、生活にゆとりができるようになり、自由時間が増えたと思われる。自由時間が増えたとなれば、個人の裁量は大きくなり、それはつまるところ自身の生活環境も自分自身の行動に依拠する程度が大きくなるという点で自己責任論が以前より主張しやすい環境になったと言えるだろう。いわゆる自由と責任という概念がさらに意味を持ち始めたということになる。そもそも、助け合いの文化が常態ということは、あの人もこの人も等しく生活に支障をきたす場合があり、あなたが困ってる時には私があなたを助ける代わりに、今度自身が困った際にはあなたが助けてねという約束関係で互いの生活を保障するのが普通だったということではないだろうか。それはつまり、個人だけでは不便なことが多かったということだろう。しかし、先述のような技術革新は時代とともに進み、個人の持つ力は大きくなり、先程のような約束関係・あるいは束縛関係による生活の保障という生きる術はインフラや製品の向上に合わせて必然的に不要となっていったのだろう。

 ならば、もはや人一人の持つ生活能力は十分に底上げされたので、もう私は一人で生きられるのだからあなたも同様にあなた自身で生きられるはずだという、同社会に所属する私からの価値基準であなたを判断した時、それは当然以前のような助けるから助けてねという束縛関係が希薄になることは自然なことだろう。これが現代の合理化・個人化時代と過去の"親切地獄"との相違だろう。要は、技術・生活基盤の底上げがこの移ろいの淵源だと私は考える。それはつまり、人は自発的に変わったのではなく、否応なく時代時代の環境から影響を与えられていると言っていることでもある。このあたりは、環境心理学のアフォーダンスなんて言葉もあるくらいだから、疑いようも無いだろうし、主体に迫るなら主体自身とそれに影響を与える環境の方にも目を向けなくては確からしい因果を推察することは困難だろう。

 では、やれやれ晴れて"親切地獄"の時代は終わって個人の力は大きくなった、これで鬱陶しい束縛関係も失せて人は自覚と責任で各々勝手に生活を行うようになるだろう天晴! ・・・という単純な幕引きとなっただろうか、この話は。元々、人は自身の不足する力を暫時の、他者との相補的な 不足/余剰 関係で調和をとり暮らしていたのだろうことは既に述べたことであるが、その時から既に人一人生きるには不足していた生活能力をその時は他者の余剰な生活能力を授受することで満たした訳であるが、ならば個人で生きるようになった時代では今度はそれをどこから授受しているのだろうか。それは技術に他ならない。つまり、元々不足していた生活能力の要請先が自分以外の人から技術に取って代わっただけで、現代においても人一人の持つ生活能力というのは不足している現状には変わりがない。

 前置きはこのくらいで、ここからが今回一番書きたかったことになる。さて、人への親切は自然衰退したが、ではその失った分の生活能力つまり親切はどこからともなくこなければ現在個人化の時代が来ていることに勘定が合わない、ということになるがその失った親切分は何に変身したのだろうか。先述の通り、この本題の答えを私は技術であると考える。つまり、過去失った親切分は現在において技術に変身し、これが他者に親切を与えている状況に変わった。個人的な親切関係は、技術(つまりシステム・サービス)へと公-私的な親切関係に転じた。ここが現代の様相を解釈する一つのミソになると推察している。

 ここでやっと本記事の表題のもう一つ、アダルトチルドレンの話題に触れていく。そもそもアダルトチルドレンとは、機能不全の家庭において過剰適応の精神が通常の幼少期を送ったが為に、青年になって社会に出た時に周囲との違和を感じるという人のことを指す言葉だが、このアダルトチルドレンに至る原因は過剰な協調・抑圧にある。カナダの精神科医エリック・バーンが1957年に提唱した交流分析理論を基にして作られたエゴグラムという特性論によれば人の心は五つの尺度によって分析され、人の態度はそれら五つの尺度の強弱バランスで決まる。それら尺度を以下に簡単に記す。

・CP(Critical Person)   ・・・ 批判的な態度(厳しさ)

・NP(Nursery person) ・・・ 養育的な態度(優しさ)

・A(adult)            ・・・ 理性的な態度(知性)

・FC(Free child)      ・・・ 無邪気な態度(自由奔放さ)

・AC(Adapted child)    ・・・ 素直な態度 (従順さ)

ここで前述のアダルトチルドレンに関係するのはACの尺度だが、今回の本題の論拠として用いるのが "一般に、ACはNPの環境にあると強くなる" というものだ。こう宣言した時点でもうお察しされたかもしれないが一応記していく。

 

<本題>

 本題に入る前にまず、"ACがNPの影響を受けて強くなる"ということを実生活に当てはめてみる。例えばこういったことが考えられる。

・箱入り娘は素直で、人の言うことをよく聞く

これを別の言い方をすれば、溺愛された子供は反抗的な性格にならない、となる。実際は知らないがこれはイメージされやすいと思う。つまるところ愛情を強く受けて育つと素直さが増し、人の言うことをよく聞いてはよく他人に気兼ねするといった気風が育つ。この状態が行き過ぎると、強すぎる愛情は過干渉となって表れ、それに過剰適応する子供、という構図ができてしまう。その為、パラケルススの有名な言葉である"万物は毒"という言葉はここでも当てはまる。

 さて、NP的なもの(優しさ、配慮、寛容、干渉、親切)はAC的なもの(素直さ、協調性、気兼ね、消極性)に影響を与えるという話を踏まえると、これまでで書いてきた中にACを高める役割を担いつつあるものがある。それこそが技術であると私は考える。これが判然としないならばこう考えて頂きたい。

・まず一つに、NP的なものとは"先回り"するものだということ

・もう一つに、NP的なものとは何も人対人の場合に限らないだろうこと

ここでこれまでの前提を踏まえ、この記事の文意を単刀直入に述べる。

 

"親切の担い手は人からモノになった、そして親切は過剰に与えられている。"

 

とりあえずここまでとして、続きはまた書きます。