sappalenia’s blog

無責任な戯言です

デカルトとドクラ・マグラ

少し書きたくなったので書かせてください。

今回は長くなります。(1600字程度)

 

  心と体の関係について、何故か久し振りに考えていたので、その記録です。

  その昔、物心二元論なる考え方があったらしいです。端的に言えば、心と体は分離していてそれぞれ別々に存在しているというもの、という考えだった筈。しかし、この考え方では説明できない現象がありました。心身症がこれに当たります。心の状態に伴い、体の調子も変化してしまう。これは二者が分離しているという考えを脅かす事実です。

  この考えはデカルトによって示されました。デカルトは方法的懐疑と呼ばれる手法を用い、この二元論に辿り着いたとされます。その内容は、積極的に偽と思われるものを排除していくというもので、デカルトはこれを繰り返しやがて有名な言葉に辿り着きました。

我思う、ゆえに我あり

その言葉が語る意味としては、偽であると考える私は真であるといった感じです。つまり、存在しなければこれは偽あれは偽だなんて考えらんないなあ、ということでしょう。

  デカルトはこれをあらゆる思考の基盤、出発点としてそこから思索を深めました。この考えをもとに、美しいや暑いなど恣意的なものを悉く自動的働きとして捉えた立場が、ド・ラ・メトリによって示された人間機械論です。人間機械論を具体的に説明すると、人間の行動や思考はすべて数学で記述できてしまうという考え方です。人間は微分方程式によって記述でき、その今後の動きは予測できる。心は物理現象であるという捉え方をします。この機械論は現代の脳科学や心理学など、人間の精神とされるものを科学的に扱う視点を与えました。現主流の科学、人工知能にも通じるものがありそうですね。

  話は飛びますがこの機械論、ドグラ・マグラの作者は否定的な立場なんだろうなと思います。ドクラ・マグラの中では、科学万能主義に対する批判が示されています。特に、キチガイ地獄外道祭文内では、精神病患者を食い物にする医者の所業を記し、それに対する批判や嘆きが描かれていたように感じました。機械論によって人の心を他人が扱えるようになってしまったことへの否定的な感情の発露だと思うのです。元来、人間が持っていた精神の神秘や霊性が機械論の登場により、それらは微分方程式の解としてある種無味乾燥の寂しいものへと姿を変えてしまったという不安、恐らく夢野久作はそれを感じたのではないかと思います。というのも、私自身が機械論に対してそんな情念を抱くことが多いからです。科学を推し進め、社会を豊かにした功績には間違いが無いのですが、一方で、人間の神話性を薄れさせたこともまた間違いがありません。機械論は自然観や倫理観とのせめぎ合いを引き起こします。ドグラ・マグラは、合理一徹の科学に対する不信感や不安感を表していたように思われるのです。そして、疑似科学のような途方も無い思想的な世界観を描き出しているのもそこからの脱出のような感じがしました。

  ということで、物心二元論から見る科学の合理性とそのカウンターとしてのドグラ・マグラ所感でした。

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因みに、デカルトの積極的懐疑についてなのですが、徹底的に心情的なものを排し、本当に正しいものだけを拾うという作業は途方も無い孤独を連れてくると思うのですが、デカルトはどうだったのでしょう。既成の知識基盤を全て疑い、自らの思考作業のみを頼りに本当の知識の拠り所を探す。俯瞰してかなり孤独な作業であると私は思うのですが、それをあくまでも目的の為に、自身の精神安寧とは関係の無いところで行っていたのならば、デカルトは物凄く理知的な方だったんだろうなと思います。ウラヤマシー

  私も以前、全てを疑ったことがありましたが、それは特に学術の為とかではなく、ただの精神不安だったのでデカルトには敵いそうもありません。ザンネン