sappalenia’s blog

無責任な戯言です

よりもい視聴断念

 最後まで観ると言っていたが、表題の通り、よりもい視聴は7話まで観て断念してしまった。視聴前に知っていた、南極に辿り着いて開口一番の口上も観る気が起きなかった。

 と、私の中の事実だけを記しても仕方が無いので、その解釈を書いてみる。まず、何故観る気が失せたのかということについて。それははっきり言ってしまえば、興味が失せたからとしか言いようがない。あの4人はなんと南極へ行く、なるほど。それはすごいことだ。して、そこにはどんな過程があるのだろうか? この答えはこれまでの7話を観るにさして目をみはるものでもないだろう。なんかしらんがうまくいくのだ。どうして南極にこだわるのかという因果もあまり興味が湧かない。ポッと出てきた他人が行くそうなので便乗しておいたのよ! 程度の印象だけが残ってしまった。

 …もしや、実績が欲しかっただけなのではないか?

 ぐ、嫌な閃きが脳裏をかすめる。うむむ、主人公なんかは何かしたいという思惑しか明かされず、コンビニ店員だった女の子もなんか君達良いよね程度の漠然とした端緒しか明かされない。4人目の芸能人の女の子なんかは南極へ行くための物語的な橋渡しに利用された感が強い。

 俯瞰してこの4人はよく分からない。よく分からない4人が南極へ行って、そしてそこで何事かの感得を得たところで私には高尚すぎてそれがなんだか分からない。

 これが結局のところ、視聴断念の近因だろう。私には訳の分からん人間が何か訳の分からん事をしたところで感動もくそも無いというのが一念としてある。お好きに南極へ行ってくれ! 行きたきゃ行け! なんかうまくいって行けるみたいだよ! そうか! 私は知るか! そんなところ。

(別に恨みも無いが、肯定的意見が多勢だったのでカウンターとしての怨言を載せてみた)

 

 

 更なる解釈を試みる。現代の写真機の使用との関連から連想してみる。旅行をし、観光し、そこで写真を撮っては後でそれを眺めるとする。その場合、その過去を眺めている間、現実は空疎になる。写真を見る私、その体は現在を生きながらも意識は過去に遡る。それは悪辣に表現すれば、現在を蔑ろにして過去の映えある時間に縋っているとも見受けられる。写真を撮ればその瞬間は永遠だろうか。頭の中には無い、その場所の、その場所での特別な時間が。レンズ越しに見る風景、肉眼で見ようとしないその風景、今この瞬間をいつまでも留めておこうと画策するある意味でのあさましさ。今この瞬間、ここにいるのは私なのに、それを後で見返して出涸らしのように味わい尽くすいやらしさ。テクノロジー由来の、諸行無常への反抗。不変は不自然、外部保存は脳内記憶の怠慢、色々な不穏な感覚を感じずにはいられないが、これはこの場合にも当てはまらないだろうか。

 安易に実績だけを作ろうとする態度、何がしたい、それは何のため。南極へ行きたい! それは何のため? 物語からはそれが私には分からない。…ただ南極へ行くという実績が欲しいのではないか?…過去の輝かしい瞬間の自分を切り取っておきたいだけなのではないか?

 そんな事を思うと、どうもこの物語が技巧的で打算的で設計的で、現実の避暑地としての創作であるならばうすら寒くて割りに合わない。彼らは割り切りが良すぎて賢すぎる、それがやけにリアルな露悪的皮相描写みたいでともすれば苛立ちを覚える。