sappalenia’s blog

無責任な戯言です

吉野弘詩集を読んで(12/7追記)

  表題の詩集を読んでいました。まだ最後までは読み切っていませんが、いいなあと思う詩が多々ありました。

  日常の中で何ともないように過ぎてしまう出来事を大切にするという感覚、それを感じました。こういった感覚は大切にするべきだと思い、私はこれを顕微鏡などに準えて(なぞらえて)"分解能"と密かに呼称することがありますが、いったい忙しい日常の中でどれだけこの"分解能"を精度良く出来るでしょうか。雑事と思えば思えてしまうそのような些細な出来事をどれだけ自身の心の中で大切に、真剣に考えようとするか、それこそが感性というものの一つの答えであるような気さえしています。

 

分解能:

  ここでは、見分けられる二点間の最小距離のことを指しています。異なる二点がどこまでの距離ならば、そのまま同一点ではなく異なる二点として捉えることが出来るのか、これはきっと大切なことです。相異なるものを一緒くたにするという事はつまり、それらは全て違いのないものとして見るということに他ならないのですから。個々の事象に対し誠意を持って眺めることは絶対に、困難だとしても、意識すべき、意識せねばならない事柄でしょう。安易なカテゴライズは人生を空虚にすると私は信じています。

  格好をつけて言うのなら、詩人というものは現実の諸相に対して顕微鏡のような目を持った方なのかもしれませんね。そして、現実の顕微鏡に準えるのなら、その倍率の高さこそが世間一般で言われる所の繊細さというものなのかもしれません。

 

追記:

  分解能の違いは致命的な問題です。何故ならば、理解できないことには人は蓋をするか、攻撃するか、保留するかしかありません。そして、最も問題なのは、その得られた情報というものは同じ共有する世界に由来するものだということです。

  ここに格差というものが生まれてしまいます。社会的存在であるところの人は相対価値には滅法敏感であり、絶対価値というものには鈍感です。同じ環境に置かれながら、感じ方や思考態度は違うという事実、つまり相対的な価値に人は突き動かされやすい、これは恐らく傾向として断言できます。

 そしてもう一つの問題となるのは、個人としての分解能と社会としての分解能という二者の精度の相違です。ここにおける問題の本質は個人は弱いということであり、何故なら個人を全く重視するのであればその個人は採取・狩猟民族にまで退行してしまうからです。しかし現代においてそれは、あまりに愚行と言わざるを得ません。そこで現代の人間は、半ば宿命の利他精神を以って社会という漠然とした人間の総体へと迎合しているのだと思われます。そのような中で、あえて社会へと分解能を利かせた人間を我々は詩人と呼ぶのでしょう。謂わばこれらの方々は、我々の当然を偶然と暴き出す、認識転回へと誘き寄せるアウトサイダーなのでしょう。人間の普遍的な性質として、不安定を嫌います。いち早く安定し、安住を果たそうとする人間という種の普遍的な性質に対し、それを逆撫でるような詩人という同種の出現を大多数は嫌うのでしょう。そしてそれを好ましく思うのは、疑問を抱きつつも(それが詩人ほどにアウトサイダーなのかは分からぬも)社会というものの中で生きる方だけなのでしょう。

  社会で生きる為には、社会の価値を受容せねばならない。しかし、それでも個人として生きる為には、社会を疑い、詩人のように社会に対して相対的でならねばなない。閉ざされた社会に対し、外部から刃を突き立ててやるのが詩人なのだとしたら、その働きに対し、内部からの外面的な印象は最悪です。それこそが、詩人の最も外縁的で、抽象的で、直裁的な影響の実利に見合わないメカニズムなのでしょう。

  個人の総体が社会なのだとしたら、社会の進化の為には個人の是非が全ての手綱なのですから。個人の総体に個人が埋没しては、本末転倒なのだと言えてしまう。

 

なんてことを思いました!