sappalenia’s blog

無責任な戯言です

結局奴は奴だったという言い回しを分析してみる

 「結局、奴は奴だった」

 この言い回しについて、その作用なり示唆するところを分析してみる。

 まず、言い回しというからにはそれを使用する一個人が存在すると定立する。また、人間の判断には二極あり、それが客観的判断と主観的判断であるとする。そして、上記の言い回しは、ある個人が何事かの事象を認知し、そしてそれに伴う判断が誘発された結果の表現であるとする。

 次に、冒頭の言い回しを文節に区切ってみる。

「結局 / 奴は / 奴だった」

 結局、というからには時系列がこの判断には含まれている。始点たる一つの認知と終点たる一つの認知があり、その認知の組合わせパターンが一つの判断を生じさせたということになる。

奴は、というからにはある一つの主格をある観測者たる個人が認識していることになる。また、それは観測者たる個人がその対象たる主格を自己とは排他的に捉えていることを意味する。

奴だった、というからにはある一つの判断が収束したことになる。そしてその判断内容は「奴である」であり、これが過去としてすでに経過された判断であることを表す。

 では次に、ここまでを前提にこれら三文節を繋ぎ合わせてみて、その含意しているところを取り出してみる。

 「ある観測者は自他境界の外側として認識するある一つの主格に対し、ある認知をしていた。そしてある時間が経過したところで、観測者は同じ主格に対して、再度ある認知をした。この瞬間、ある観測者は前回の認知の記憶と現在の認知との対照関係を意識/無意識下で作り上げ、そしてそれに対してある判断を与えた」

 ここで分かることは、あくまで認知は対象関係の組として影響し、そしてそれは判断を生じさせた引き金に過ぎないというということだろう。では、判断そのものの内容はどこから与えられるのか。

 それは記憶だと考えられる。つまり判断内容は認知によって誘発された時点で定まっている。これが示唆するところは、判断の認知による判断は過去に支配されることとなり、現在の判断は過去にバイアスを受ける。よって、判断が変わる場合はある程度の記憶の蓄積量が基になるだろうということだ。こう考えてみたところで「結局、奴は奴だった」と言われない為には、長い意図的な行動変調の期間が必要だということだろう。