sappalenia’s blog

無責任な戯言です

思考記述

 昔の記事見てるとかなりこそばゆいがこれが自身の現実なのだから黙って受け入れるしかない。恥を晒さない、失敗しない人間はうんちっちだという話で是としておこっと。

 ここ最近は一々他人やら自身を立派やらうんちっちやら思うの疲れてきた。もう何でもいいよ。多少の心の揺らぎはどうでもいいし、真にカスみたいな実績やら真に素晴らしい実績が無い限りは水面に落ちた一滴のしずくであってそれに一喜一憂するのも阿呆らしい。特に昨今は場当たり的、外面的な派手さ、安易な新奇性に傾注している時代な気がするし、それら一つ一つに真剣に評価をする気も湧かない。あまねく五十歩百歩だという思考態度で興味関心の霧散が起きてる。そしてカウンターとして地道な長大な密かに技巧的なものを愛したいと願うようになってきた。自身にとって心地良いだけのものが真に良い訳がない。それは接待で、配慮で、資本主義で、打算だろ。自身に配慮されたものよりも他者の心の内から湧き上がるしか無かった成果がみたい。それがコミュニケーション不能者としての他者の創作物を眺めることによる感情的、心像的つながりになるだろうし、代償行為になると思う。創作を鑑賞することは一種のコミュニケーションであると思うし、それがなぜ自己を閉鎖的に満足させる精神生成物が世に溢れているのか。そんな因果は考えても無駄で、自己の態度としては鑑賞行為とは一つの疎通行為たり得るはずだという信じる心だと思う。

 いつからか信じることは人間だけが持つ能力だと思うようになった。信じることには根拠が無いし、帰結もないが、しかし恐ろしいことに無価値を有価値に変転させる精神態度でもある。信じて任せる、信じて放っておく、これは他者の成長を邪魔しないことにおいて重要なことだ。まず、自身は他者の邪魔たり得るという前提を肝に銘じておかなければならないと思った。信じなければ信じられない、J-POPではクソみたいに言われてきてるだろう信じる価値だがやっとそれが分かり出した。無根拠で信じることは非常に不安を伴うし、怖いことだが、だからこそそれをやってのけて行動にまで帰結させてしまう人間の先進性、魅力には大変な感銘を受ける。

 昔、完全に厭世主義の一派だったが、楽観は時に重要となる。自信過剰はクソだが自信喪失もクソだ。自己の行動の帰結が怖いなら無行動が答えだがエントロピー増大の法則でこれもまた非建設的なクソだ。責任感のある方向の究極は無行動だがこれでは現実が成り立たない。そこで自死を選ぶか現実に立ち向かうかはその時のその人に依る。重責から逃げる為に無情に逃げる場合もあるし、場当たりになる場合もある。

 責任は心情としてはクソみたいな錨だが、社会秩序の安定の静的な拘束力ではならないのも事実だと思う。それが昨今の個人化の時代が指すように薄れてきているのも感じる。自身についても責任ある人間だと感じたことは無いのが心苦しいが。今は専ら自立と責任の問題に苛まれている最中。幼少から色々と悪行を重ねてきた自覚もあるし償いもしなければならないと常時ではないが時々に思う。

 昔から感じてる自身のエゴイスティックな側面を排して何か他人の為にできたらとは一応思うがそれが何か分からない。自他共に安楽な私の生き方とは何なのだろ。よく分からん。